AI技術が急速に進化するなか、かつて読んだ一冊のSF小説のことを思い起こします。R.C.フェランの「私を創ったもの(原題:Something Invented Me)」という1960年の作品です。この小説は、「無限の猿定理」に着想を得たストーリーで、無作為に生成された文字列が意味を持つ文章を生み出す可能性を描いています。
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テキサス州の牧場で隠遁生活を送る主人公の隣人トム・リンプルが、小説「早い正午」で脚光を浴びます。この小説は、出鱈目にキーを叩く自動タイプライターによって書かれたものでした。確率論的には無作為な文字列でも、時折意味のある文章が生み出されることがある、という無限の猿定理(Infinite Monkey Theorem)がその根拠です。
ところが、「早い正午」の次に自動タイプライターが書いた小説はまったく異なるスタイルのものでした。しかも途中までしか書かれておらず、トム自身が残りを執筆する羽目になります。果たして、機械が書いた部分と人間が書いた部分の違いを見抜くことができるのか——それを確かめるべく、依頼を受けた主人公がトムの作品を読み進めることになります。
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この小説の設定は、現代の生成AIを想起させます。ただChatGPTをはじめとするLLM(大規模言語モデル)は、膨大なデータを基に、確率的に次の単語を選びながら文章を生成します。トムの自動タイプライターとは異なり、生成AIは無作為ではなく、文脈や目的に基づいて言葉を選びます。
トムの嘆きである「機械が途中で話題を変えてしまう」という問題も、現代のAIではほとんど発生しません。生成AIは一定の目的やテーマに沿った文章を生成する能力を持ち、ますます洗練されてきています。
今日でも印象的なのは、最後の場面です。主人公がトムの書いた部分の出来を酷評しようと出向いたときに、トムは不安げに新たな作品を差し出します。それはなんと、この物語そのものの書き出し。「私は、自分が今しがた作り出されたばかりなのか、それとも、これから滅ぼされようとしているのかわからなかった」という言葉が、読者にも不安と恐怖を呼び起こします。
この結末は、人工知能や機械が意識を持ち得るかという哲学的問題を提起し、人間の存在意義や技術の未来について深い思索を促します。
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仕事でChatGPTなどの生成AIを利用する機会が増えていますが、その準備や調整に意外と手間がかかることがあります。先日、最先端のロボットを利用している研究者からも同様の話を聞きました。AIを活用する際には、立場が逆転することのないように、最終的な判断を機械任せにしないことが重要だと改めて感じています。
AI技術が進化を続ける中で、私たちはどのようにこれを活用し、共存していくべきなのでしょうか。AIが人間を超えてしまう、シンギュラリティ(Singularity)の懸念が現実味を増す中、1960年代の小説が提示した問いは、まさに現代にも通じるテーマです。
R.C.フェランの「私を創ったもの」は、単なるSF小説にとどまらず、私たちにAIの未来や人間の在り方について考えるきっかけを与えてくれます。AI技術が進化する中、私たちはこの進化をどう活用し、人間らしさをどう守るのか。時にはその問いを正面から受け止めることが必要なのだと思います。
株式会社マインズ・アイ
代表取締役 名取雅彦
【参考】
R.C.フェラン、「わたしを創ったもの」『年間SF傑作選1』、創元推理文庫